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終活第二弾・・・2015年10月17日

終活第2弾として、ベランダの物置から不用品をハードオフに出すことにした。

DSCN4906.jpg
終活の常だろうが、すぐ思い出が蘇る。
1.天体望遠鏡
  ハレー彗星の時に購入。一家総出で湘南海岸のパシフィックホテルにこれを
  持って行った。満室のところを頼み込んで最上階の宴会室に入れてもらったが、
  ついに見えなかった。横浜から引っ越すときに捨てようかと思ったが、
  孫が来た時に見るかも知れないと持ってきた。宮崎に遊びに来た孫たちに
  満月をみせてやったら、クレーターがハッキリ見えたと大喜びだった。
2.アイスボックス
  本栖湖でキャンプをやったときに購入。宮崎へは釣りをやるつもりで持参したが、
  結局釣りはやらずじまい。
3.アーチェリー
  右側のワンピース弓は45年前購入。 左の3ピース弓は30年前購入。
  宮崎へきてからも使った。
  競技で30金(距離30mから3本射て、全部10点・直径8cm内に的中)
  を出した事もある。宮崎で買った新しい弓もあるが、これは温存。
4.チェーンソー
  終活第1弾ともいうべき、横浜の一戸建てから宮崎のマンションに移るとき
  使った。娘達が置いていった机、本だな、洋服ダンス、自分たちのタンスなど
  粗大ゴミ多数。粗大ゴミ集積所までに、二階から一階、更に玄関からの階段
  +200mの距離を、自分たちで運ぶのは無理と判断。 全部分解して、
  チェーンソーで普通ゴミサイズ(50m以下)に切断。普通ゴミとして捨てた。
09.10鎖鋸2

  かくて、他人の手を借りず(金を遣わず)『立つ鳥あとを濁さず』の状態にして
  引き渡した。
10.03家売却17

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を更新しました。(ディジタル化追加)




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下戸・・・2013年09月19日

 池波正太郎の『剣客商売』とか『鬼平犯科帳』など、BSでやっている再放送番組を録画して観ることが多い。登場人物は主役であれ悪党であれ、みんな酒飲みだ。実にうまそうに酒を飲む。
 私は酒を飲めない。生まれつきの下戸である。無理に飲んでも、頭痛や吐き気を感ずるだけで、陶然たる酔い心地というものの味を知らない。仕事は技術屋だったから、顧客の接待にはたいてい営業がついてくる。だから仕事で困るということはなかった。ではあるが、酒飲みに対してなんとなく引け目を感じながら生きてきたという思いは拭えない。
 70を過ぎた今から飲みたいとは思わないが、もしも来世というものががあるのなら、大酒のみとは言わないまでも、『このビールにはキレがあるのにコクがある』とか、『うまい! この料理にはこのワインでなくっちゃいけない。』などと能書きのひとつも言えるようになってみたいものだ。

デジタル化・・・2013年09月13日

前回、映画『風立ちぬ』の中で計算尺が設計室から消えるまでと、消えたあととの変化の速さの違いについて書いた。
何気なく関数電卓の出現を引き合いにだしたが、あれは、アナログ計算器からディジタル計算器への変化であった。

digitalise3.jpg

『計算も製図も工場への伝達も、製造機械への指令までもがすべて電子化されて、設計室はパソコンばかりの空間になった。』

digitalise2.jpg

 ”電子化”と書いたが、なぜなにもかもが電子化できるようになったのか?を考えると、それは世の中のいろいろな事象がデジタル化して表現できるようになったからである。
digitalise1.jpg

デジタル化によって進歩の速度が急に変わったのは、デジタルは誰が何度やっても同じ結果が出るからである。
しかも、メモリーに記憶できるから伝達もかんたんで、誰から誰に伝えても正確に伝わる。人から人へだけではなく、人から機械へも、そして機械から機械へも簡単に正確に、しかも通信回線を通じて伝わる。
日本は工作機械をデジタル化したのは早かった、アナログからディジタルへ変換する機器の開発も世界に先駆けて発達させた。
なのに、そういう機器を手掛ける代表のような電器メーカーが片っ端から敗退するようになった。
ソニーがウオークマンというアナログの精華にしがみついているあいだに、アップルのipod 置き去りにされていまだに立ち直れない。並み居る家電メーカーは韓国、中国に追い抜かれて、いまや倒産寸前である。何故だろうか?

それは、日本がデジタル化する機器には熱心だったが、デジタル化した結果を活用するのに熱心でなかったからである。
だから、ディジタル化する機器は今も世界を抑えてダントツだ。
しかし、ディジタル化する機器は、今や”部品”であって、部品としての値段でしか売れない。
家電メーカーはそういう部品のアセンブラーとしてしか存在できない。なのにいつまでも社内製にこだわって、アセンブラーとしての洗練を怠って敗れた。

いまだに、世界に誇れる日本特有の”技術”とは、”熟練工による”精密加工であったり、均一な錬度の高い労働力であると思っている人が多いが、そんなものはずっと前から時代遅れのシロモノになっているのだ。
ディジタル化は何十年も前からじわじわと熟練とか訓練とかいうものを無力化し続けてきたのだ。
日本はそれに気づくのが遅れた。熟練と訓練が世界にさきがけて高度化していたために。
30年以上を電子化、ディジタル化に尽力してきた者として、残念でならない。

私とアポロの10年間・・・2012年04月03日

私の自分史1961~1970年というプライベートをわざわざ書いたのは、この10年間がアポロ計画の10年間と絵に描いたように一致するからである。

1961年 ケネディ大統領がアポロ計画の発足を命令
      私が高校を卒業し日立に就職

1963年 ケネディ大統領がダラスで暗殺される
      私が日立を退職し浪人生活

1964年 SA-6 サターンI発射
      私が大学入学 東京オリンピック開催

1967年 アポロ1号火災で飛行士3名焼死
      私が富士通就職内定

1968年 AS-204 サターンV アポロ5号 着陸船開発
      私が大学を卒業し富士通に就職

1969年 AS-505 サターンV アポロ11号月面着陸
      私が結婚し第2の人生スタート

1970年 AS-508 サターンV アポロ13号酸素タンク爆発
      乗員全員奇跡の生還
      私の長女出生

 この間、ロバートケネディ、キング牧師、マルコムX暗殺という大事件連発の一方で日本の経済急成長という激動の時代でもあった。53年前から42年前までの10年間の出来事である。私も歳をとるわけだ。でも日本にとって幸せな時代に生まれ合わせたものだとつくづく思う。月面着陸は会社のテレビでリアルタイムの実況中継を観た。モーレツが流行った時代だが、さすがに全員仕事を放り出してテレビに見入ったものだ。というより、そんな自由な雰囲気がそこらじゅうに漂っている時代だった。


1968年~1970年の私・・・2012年03月21日

 1968年富士通に入社して、数値制御部門への配属を希望したが、東大卒が門前市をなす状態だと聞いて方向転換した。新入社員実習の教育日誌に『IBMではディスクパックという物を使って高速処理しているのになんで富士通はMTなんぞでモタモタ処理しているのか?』と書いたら、『そんなに言うなら自分で作ればよいでしょう』と朱記して戻ってきた。

 で、配属先は周辺機技術部・磁気装置設計課。中央処理装置なんぞはまたもや東大卒がうようよだろうから、『周辺機』というのがちょうど良いところだろうと思った。だが意外や、同期は東大と早大の修士。二人とも一浪だから、三浪の私と同年齢。1年、2年前に入った連中より歳上、3年前の連中と同年齢である。
 会社での地位は入社年度が早いほど上だが、プライベートでは年齢優先だから、1年、2年前入社の連中からはさん付けで呼ばれ、3年前入社の連中とはオレ、アンタの仲。管理職になってからは、常に1階級上の人間とオレ、アンタの仲というのはとても都合が良かった。

 設計した製品は試験課でテストされるが、まあ、たいていは動かないから、一緒に調べて変更仕様書を書く。試験ははじめからやり直すから余計な手間となる。当然新人はいやみを言われてなかなか受け取ってもらえない。
 ところがそこに私の工業高校の1年先輩の班長が1人、1年後輩と2年後輩が各一人いた。変更仕様書を私が出すと、班長は、『なんだよ、また変更か』といいつつもすぐに受け取る。2人の検査員は、先輩、先輩と私をたてまつって一緒にやってくれる。2年後輩でも入社6年目の中堅だから、私は”存在感のある新人”として一目おかれることになった。
 自分専用のオシロスコープのプローブ1対を首からぶら下げ、作業服の胸ポケットには注射針を刺して現場を闊歩したものである。
 注射針は、プリント基板を修理し、部品を挿入するのに、リード線穴のハンダを除くのに使った。当時は富士通病院に行けば、使用済み注射針を簡単に貰えたのだ。いまでは信じられないことだが。

 三浪とは言っても、他社で2年の設計経験を持つから、ウデだって他の新人とは違う。大いに得をした。
 1年目には新規開発の磁気ドラムの、アナログ回路(データ読み書き)設計を任され、2年目には磁気ディスク装置(記憶容量5MB)のアナログ回路(データ読み書き+ヘッドの位置決め)を任された。体積が1立方mくらいあったから、500GBで10cc程度の今とは文字通り隔世の感がある。2年目の1969年には結婚、1970年には長女誕生と公私ともに順風満帆だった。

 1968年には九大の電算機センターに米軍戦闘機が墜落するという事件があり、婚約者が九大勤務だったからおおいに驚き心配したが、無事だった。建物の屋上にジェット機が1年以上乗ったままになっていた。一方富士通は新開発の本格的大型電算機230-60の2号機の納期が2年近く延びて一息つくことができた。いまでは懐かしい事件である。


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